パリパリ派

日々のあれこれ

セイレムとクトゥルフの覚書 2

さて、本題たるセイレムの中身の話をしていこう(前回の続き)

 

norikuttenorinori.hatenablog.com

 

 

面白かったポイントは

消化不良を感じる点は

  • 屍鬼など、死者についての扱い
  • キャラクターたちの行動(主にサンソン・マシュ)
  • 結局割と投げっぱなしな神話的要素

さらに、ちょっと気になる点として

が挙げられる。特に、消化不良な点は多く、終盤も唐突に訪れるためTwitterで見かけた「プレイヤーが探索に失敗して、謎が全然解けなかったTRPG」という表現が非常にしっくりくるものとなっている。

各々の要素について少しずつ触れ、まとめていく。

 

 

良かった点

まずは良かった点を挙げていこう。

 

・フィールドの狭さ

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(セイレムのマップ。一つ一つの建物が見える)

ここまでの1.5部、新宿・アガルタ・下総はいずれも広い地域を主人公たちが狙う敵に向け探索していく、或いは追い立てられて逃げ回るものだった。そのため、「特殊な世界を冒険する」という要素は強まり、ファンタジックなものとなっていた。

これに対してセイレムは、小さな村セイレムから出られないため冒険譚としての要素は薄い。しかし、この狭い範囲に限したことで、「特異点の原因を持つ人物を探る」というミステリーとしてのテイストが強まっており、作中の事項について「考える」余地を広く生んだように思った。もともとミステリー好きの私には非常によく馴染むものだったし、考察好きの人々には深い考察が生まれて楽しめた原因だろう。

(これは良い点でもあり、同時に悪い点にもなってしまったわけだが)

 

 

魔女狩りと「演じる」という行為

f:id:norikuttenorinori:20171205004303p:plain(判事。ウザい)

元ネタであるセイラム魔女裁判の通り、この物語においても人々は狂い、隣人を疑い、告発していく。狂乱した人々の告発には無実の人々も続々と含まれていき、異端のものとして絞首刑に晒される。この疑いの目は主人公たちにも向くわけだが、主人公たちは元々魔術を使えるため必然的に嘘をつくことになり、清廉な旅芸人をよそおうことになるわけだ。

村人たちからすれば「魔術を使えるものは魔女。見つけて殺すため裁判を行う。」

主人公たちからすれば「魔術は使えるが、殺されないために一般人を装う

そして探される魔女からすれば「己の目的を持って村人を殺す

という状況が生まれ、各々が各々の腹を探り合う。

特に「隠れた敵の正体を探るため、怪しいものから順次処刑が行われる」、「特殊な力を持った人間の味方は、安易に正体を明かすことができない」あたりは人狼ゲームによく似ているだろう。(人間の味方を殺すのが村人だったり敵役だったりと異なりはするけども)

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幻冬舎人狼ゲーム。カードなしでできるゲームなので使ったことはない)

この空気感が物語に「発言を間違えたら死ぬ」ような緊張感を与え、話を引っ張る原動力になっていたように思う。

惜しむらくはソーシャルゲームゆえに発言ミスは生じない構造になってしまっていたことで、この辺り選択肢できちんと分岐するゲームでやりたかったと思うポイントの一つとなっている。

 

さらに、この「演じる」というのはこの章の非常に大きなテーマになっていたようだ。そもそも主人公たちは劇を「演じる」ことになるわけだが、終盤で実は村人たちは「魔女を忌む村人」としての役割を「演じて」いたことが明らかになり、特異点そのものが「演じる」舞台となっていたことがわかる。この辺りに気をつけて読み直してみるともう少し伏線が張られていたのかなと思う。

 

・不穏さの演出

今回の話で外せないのがクトゥルフ神話的要素だ。このテイストを上手く仄めかすことで舞台上の不穏さが盛り上がっていたように感じられた。

Fate空の境界などの先行作品が魅力的な点として、日常の中に潜む魔というか、暗躍する不気味なものを描いた「伝奇小説」としての色合いがよく残っていることが挙げられると個人的に思っているのだが、セイレムではその伝奇的な「日常と魔」の雰囲気をクトゥルフの要素を用いることで演出されていたのが良い点なのだと思う。

もともとのラヴクラフトの作品が日常から狂気に堕ちる、あるいは日常の世界に外的ななにかの作用を受けるといったもので、多少伝奇の側面を持つこともあり、伝奇的要素としての味付けに一役買っていた。これは、魔術を使うことが当たり前になっているFGOの世界で伝奇を演出する上で非常に上手い方法だったのではないだろうか。

 

 

腑に落ちない点

次に、微妙だった点について。疑問として書くところには、単純に自分が読み逃しただけのところもあると思うのでそういう時は目をつぶってほしい。

 

・食屍鬼とは

単純に先に「死体蘇生者ハーバード・ウェスト」を読んでしまったために期待値が上がっていたせいなのだろうが、この「食屍鬼」について結局数多くの疑問が投げっぱなしになったように感じられた。食屍鬼は魔神柱ラウムが、アビゲイルの覚醒のため、何度も魔女裁判を繰り返す「役者」として作られたものだった。

この死者の再利用現象の再演は、空の境界の小川マンション*1に近い発想ではないだろうか。矛盾螺旋荒耶宗蓮はマンションを結界として作り上げ、 その中で繰り返される死の螺旋で根源への道を開こうとした。ここで繰り返された死が繰り返される様子は「死んだはずの人間の生活が続いている」という謎として提示され、両親を殺したはずの主人公の恐怖として物語を引っ張った。

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(小川マンション。内部は住人の精神を責める構造になっている)

この謎に対し、矛盾螺旋では、「繰り返される死は、宗蓮により脳だけ集められ生かされた人々の意識が仮初めの肉体により演じていた」という解決に加え、「実は語り手もその仮初めの肉体の一人だった」という形で盛り上げられる。

しかし、セイレムでの死者の復活は、散々謎として提示しておきながら「実はみんな元々死んでました。繰り返したかったので復活させました」と、具体的には何も述べない非常に雑な解決(?)がなされてしまい、そこに何のギミックもなかったというのが非常に肩すかしな印象を与えている。また、たとえこの解決にしても、もう少し犯人を示す伏線を張ったり、なんらかの条件を設定することでより面白くできたのではないかと思えてしまう。

実際のところ、食屍鬼が登場する「未知なるカダスを夢に求めて」などでも割とその蘇りあたりのメカニズムなどはふんわりしていたのだが、序盤から「サーヴァントといえどこの領域で死ぬのはまずい」ということを散々印象付けておきながら、死者の蘇りについて大した説明が行われないのは非常に片手落ちなのではないだろうか。

  

・キャラクターについて

複数のライターの合作の形になるFGOではままあることのような気がしないでもないのだが、キャラクターの行動原理にブレが生じていたり、そもそものキャラクターの導入が非常に曖昧になっている部分も気になった点である。

まず第一に挙げられるのはサンソンだろう。死刑執行人である彼はこの裁判と処刑がテーマに根ざしたこのセイレムにもってこいの人材であることは間違いない。処刑すること、されることに思い入れがあるのも頷ける。序盤こそ彼は経験を生かし、判事との交渉や説得に一役買ってくれる。しかし、途中から彼は単独行動で判事と行動を共にし、結局はそのまま異端として処刑されるというよくわからないことになる。なんとこの間のサンソンの行動についてはほとんど説明がなされないし、処刑も回避する方法があるのになぜかそれを受け入れず、普通に死ぬ

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ダンガンロンパしてそうな顔のくせに何あっさり認めてんねん)

いや、確かに処刑に思い入れがあるかもしれないのはわかるし、彼なりの哲学で処刑をごまかすことを許せないのかもしれないというのもわかる。実際それをほのめかしたいんだろうなあという雰囲気の迂遠な描写はちょっとあった気はする。しかし、全然主人公たちに説明しない理由はわからないし、あまりにも自己満足的で理解に苦しむ。

結局最後にカルデアに戻ってきてさも当たり前のような顔で後日談に参加し、深い示唆的な話だったような雰囲気を出してくるが、流石にそれでお茶を濁されても困るというのが正直な感想だ。

 

第二に挙がるのはマシュ。終局以来、満を持してのストーリー参加となったわけだが、行動がよくわからない。魔術が使えなくなったために1.5部は参加していなかった(多分)はずだったので、ものすごく危険っぽいセイレムに普通についてくることに割と疑問が生じてしまう。

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(魔術使えないのに来るのはさすがに無理では・・・?

更に、その状態でありつつ、また村じゅうに危険があることがわかっている状態で普通にカーターにホイホイついて行って行方不明になるのも戴けない。ティテュバの正体を明かす展開の都合上無理やり加えられた行動という感じが否定できず、違和感が強くなっている。

また、ロビンが妙に機嫌が悪い点や、哪吒の参戦の唐突さも疑問となっており、まともに物語に対して参加していた印象があるのはマタハリとキルケーぐらいなんじゃないかという感覚となっているのが勿体ないと思う。

 

・神話的要素の落とし所

〇〇らしくない」というのと「新しい試み」というのはしばしば共存してしまうもので、上手く折り合いをつけることは難しい。

FGOの中でも良いシナリオと名高い7章のメソポタミアを見直してみると、あれもよく考えてみれば今までのFateとは大きく異なるものだろう。ボスを倒したと思ったら世界を産んだ神様が顕現して、異形のモノに人間が喰い殺される世界観は、「英霊との聖杯探索」という視点が主だったそれまでの話とは一線を画し、「らしくない」ものだった。

f:id:norikuttenorinori:20171205003006j:plain (ラフム。怖い)

しかし、守護者としての「英霊」という設定を上手く使い、世界が崩壊に至る混沌と、今までの「魔術」についての話題を結びつけ、さらにはエレシュキガル・マーリン・山の翁たち名だたる英霊たちの特殊な支援によって「英雄達と世界を救う物語」としての面白さを強く押し出して新しさの実現に至っていたように思う。

 

 一方のセイレムで新しい試みとして導入されたのは、創作上の神話、クトゥルフ神話だった。これを外乱として導入することで魔術が元々ある世界観に対して新たな不気味さ、未知の雰囲気を醸し出すことに成功しているのは前述の通りであり、これは7章の後半の世界崩壊と同様の効果で盛り上がりを演出している。

しかしながら、このクトゥルフ神話の要素、「得体の知れない強大なものが現れる」という雰囲気は、結局普通にアビゲイルに乗り移ってちょっと強いだけのボスとして出てくるだけだったというのがなんとも口惜しい点だ。「魔術世界の崩壊」みたいな煽りをしておきながらコレでは、正直危機感もないし、拍子抜けもいいところだ。

Twitterではこの拍子抜けっぷりを、7章の展開を踏まえて「ゴルゴーンを倒して終わるメソポタミア」なんて言い方をされてしまっていたりする。実際、アビゲイルを倒した上で、召喚されてしまったクトゥルフの神の圧倒的な力で7章のような世界の終わり的展開が来ることを予想していたプレイヤーも多かったのだろう。

単に新たな要素を取り込んだだけで、やっていることは普通のクトゥルフ神話TRPGのようになってしまったため、悪い意味での「らしくなさ」に化けてしまったように思えるのが残念だ。

事前に「ボリュームが多い」という情報が開示されていただけに、より大きな展開が期待されてしまったのだ。もう少し小さくまとまるイベント的なものなら落胆も少なかったのではないだろうか。

 

楽しい考察ポイント

最後にちょっと想像するのが楽しかったので、プレイ中に考えていた魔術観とクトゥルフ神話の話題を書き留めておく。

 

・ウェイトリー家

7節ではラヴィニアが魔術師の家系であることを告白するシーンがある。

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それによれば、ウェイトリーの家は錬金術に端を発した魔術師の家系で、"外なる神"の降臨を目指す一族だという。

このウェイトリー家、元々ラヴクラフトの小説の登場人物で、そこではラヴィニアがなんと"外なる神"の子を産んでいるのだ*2

小説内では実際目的があって身篭ったのかは定かではないのだが、この魔術への取り込みは非常に面白い試みだと思う。すなわち、「根元に至る過程で、神話生物の降臨を目指す魔術師がいる」という形でTYPE-MOONの魔術師のカテゴリに違和感なくクトゥルフ神話の人物たちを導入できるように思えたからだ。実際、時計塔には「降霊科」があることを考えれば、ここにクトゥルフの研究者もいるのではないかという想像が膨らむ。

しかし、この想像は裏切られてしまった。

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なんと"異端"なので侵入されると魔術の体系に綻びが生じるらしい。

やばいので教会の代行者とかにも支援を頼むらしい。

「いや、教会から見たら魔術教会も異端なんじゃないっけ?

という疑問が吹き出してしまったのは期待を裏切られた悲しみによるものなので許してほしい。(「異端」という言葉のチョイスが良くないと思う。魔術体系が壊れる設定ならそれはそれでいいのだけど)

実際のところ、ウェイトリー家はFGOの世界上でも創作上の人物たちだったという設定のようだ。悲しいことにTYPE-MOONの世界にユグ=ソトースを召喚する魔術師はいないらしい。面白い設定だと思うのでどこかで導入されないかなと密かに期待したい。

 

ランドルフ=カーター

もう一点の考察ポイントは最後に出てきた本来のカーターについてだ。カーターもラヴクラフトの小説の登場人物で、そちらでも異世界の扉を開き、各世界を旅している*3

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異世界……というか、世界の移動という点ではTYPE-MOONでは外せない話題として「第二魔法」が挙げられると思う。「平行世界の運用」がこの魔法であるとされているのだが、この魔法を使うおじいさん、ゼルレッチ翁の描写をstrange Fakeなどに見る限りでは、本の形に綴られた世界を俯瞰し、異なる展開を見せる世界線の中からより良い世界を運用しているようだ。世界を俯瞰する人物がいる場合、このカーターの挙動はどのように映るのだろうか、というのも面白いと思う。

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(FGOでは礼装で有名なおじさん。持ってないので拾い物画像。カレスコほしい)

ゼルレッチ翁の世界運用が魔術的なものであるとすれば、クトゥルフ世界が魔術体系の外にあるということを考えるとカーターの世界移動はゼルレッチの眼には映らないものとなるようにも思える。

この場合、既存の世界にからの脱出は、魔術世界において"魔法"ではないのだろうか、と考えてしまう。

 

 

などなど、色々考えてまとめられるほどにセイレムは楽しい物語だったと思う。ただ、やはり要素の多さに対して展開に対する疑問や、回収の乱雑さなどが目立ってしまい、イマイチの出来に感じられてしまったことは否めない。

まあ、これをきっかけにクトゥルフ神話及びラブクラフトの著作を読もうと思えたし、読んで楽しみが深まったので個人的には得るものが大きかった話だった。

 

ありとあらゆる知識の浅いにわか仕込みの文だがこの駄文を叩き台に色々話が弾めばこれ以上の喜びはないので、読んだら人がもし万が一いれば思い思いの想像と感想を語ってほしいと思う。

 

FGOについては年末にイベントがあるだろうし、また来年配信されるであろう2部を楽しみに待とうと思う。

*1:空の境界(中)「矛盾螺旋(上・下)」

*2:ラヴクラフト全集 5 「ダニッチの怪」

*3:ラヴクラフト全集 6 「ランドルフ・カーターの陳述」など