村上春樹とウニの話
巫山戯たタイトルだが、私にとっては大真面目だ。
「高級でありながらものすごく苦手で全く楽しめないもの」という点で、私の中の村上春樹は海の中に住む黒いトゲトゲと全く同じものと言っていい。
そんな話をゆるりと書き連ねてみたいと思う。
先に言っておくがこの例えのために名前を出しただけで村上春樹にはあんまり関係がない話をするので悪しからず。
どうしてこんな話を始めたかといえば、Amazonで本を漁っていた時に
「謎解きばかりで人間味がない。私にミステリーはわからないと思った。☆1」
というスーパーゴミクズレビューを見つけてしまったからだ。
この「じゃあミステリー読むなよ・・・」の一言に終わるレビューをわざわざ商品を選ぶところに書き連ねる感性について考えてみよう。
もしこのレビューのクソさがわからない人がいたら、こんなレビューを考えてみるといい。
「このカレー屋、有名だったので来てみましたが私はカレーが嫌いなので食べられませんでした。☆1」
なんとなくカレーが食べたいと思って調べてこんなレビューを見つけたら、検索に使っていたスマホをぶん投げたくなる気持ちがわかるのではないだろうか。
安直に考えればこのタイプの人々は斜に構えたがりの、こじらせた厨二病患者だと思うのだが、そうではない。
この人たちは本当に大真面目に読んで本当につまらなかったのだと思うのだ。
それを大真面目に感想として述べているのだろう。
問題なのは、この人たちが自分の感性を一般的・絶対的なものとして考えていることだ。これは、「文学などについては絶対的な『良いもの』が存在する」という思い込みに端を発しているのだと思う。
「純文学の良さがわからないのは感性が鈍い」みたいな風潮を感じたことはないだろうか。
代表例として挙げたいのがタイトルにもある通り、村上春樹である。
新刊が出れば書店にはタワーが出来上がり、ノーベル賞の時期になれば毎年候補としてお祭り騒ぎだ。押しも押されぬ文学の第一人者。文学を嗜むのであれば彼の著作は網羅して一家言持っておくべきであるとさえ言える。
まさに『良いもの』の代表例だ。
だが、私は村上春樹が苦手である。
半分嫌いの域に踏み込んでいる程度には苦手なのだ。読み始めて数ページで恐るべき倦怠感に襲われ、得体の知れない消化不良感に苛まれ、迫り来る睡魔と格闘する羽目になる。
誤解して欲しくないのは、この「苦手」は自分に端を発していて、村上春樹の本自体が悪いと言っているわけではないということだ。
この「苦手」は子供が「苦いからピーマンなんて嫌いだ!!」と喚くのと全く同様で、美味しい食材でも嫌いな人がいるように、良い文章でもどうしても受け入れられない人がいるということを表している。
特に、世間に賛美されている点において村上春樹の小説は文芸界の高級食材と言って良いだろう。しかしながら、高級な食物でもどうしても苦手に思う人がいるように、彼の小説もどうしても苦手に思う人がいるのだ。
そのイメージが私にとっては完全にウニなのだという話である。
(好きな人には超高級ですよね。ウニ。気持ち悪くて食べられないんですけど。)
ここで主語を極端に大きくしていくと、どうにも世の中「いい・悪い」と「好き・嫌い」を混同している人が多いのではないだろうかという話ができる。
「食べ物が嫌い」は許されるのに、
「ある作品が嫌い」というとすぐに喧嘩である。
「嫌い」なんてまあそいつの趣味が悪いんだから仕方ないのだ。確かに楽しんでいる側から見ればセンスがないしもったいなく見えるかもしれないのだがこれはどうしようもないことだろう。生まれつき辛い(からい)食べ物が苦手な人間がいるのだから、生まれつき辛い(つらい)話がダメな人間もいようというものである。
また問題は「嫌い」を発する側にもある。
何故か「俺が嫌いなのだからこれは『良くないもの』だ」という文脈で貶し始める人間がいるがこれはいただけないだろう。
「嫌い」なのはそいつ自身でありその感受性なのだから、『良くないもの』として語るのならば己に依存しない作品自体の技量や技術について語るべきだと言える。まして言うまでもないことだが「俺が嫌いなこんな作品を好きなやつはロクな人間ではない」というようなことまで言い出す輩は論外である。
つまり
「この話は面白くないから良くない」
ではなく
「この話はこういう点が『私には合わないので嫌いである』」
もしくは
「この話はこういう点について『技術的に足りていないので良くない』」
として語るべきだと思うのだ。
この辺り、きちんと弁えられるようになれば良いものは良いとして紹介できるし、「私には合わないけどこういう点が好きな人には合うかも」という建設的な話題づくりができ、より一層楽しめるのではないかと思う。
実際始めのレビューの話に戻れば、レビューは本来的にはのちの購入者が参考にできるように書くべきものであり、そう考えればレビュアーの個人的な主観の比重を下げ、もっと中身の技法などの議論について言及すれば良いことがわかるだろう。
もうちょっとまともな書き方が世間に浸透したら、今では邪魔でしかないレビュー機能ももう少しまともに見えるのではないかと期待している。
連綿と不平不満を書き連ねて来たが、動もすれば己に跳ね返りかねない内容ばかりだ。
というより何度も感情だらけの不平不満を述べているしなんならこの文章自体も感情だけで書いているものなので自己撞着の極みといったところだろう。
考えていたらエラーを吐きそうだ。